「ありがとう。素敵な演奏だったと思うよ」

「あの、先生、再来週の日曜日が本番で…でも、大きな演奏会は初めてで…」

「初めてで?」

「あの、簡単にいうと、緊張しているというか…」

「なるほど。どうして緊張するのかな?」

「どうしてって…失敗したらどうしようとか思うと、ドキドキして、手に変な汗が…」

「そうか。脅かすわけじゃないが、良くも悪くも、感情を伴ったイメージは本当にその通りになる。君がイメージすべきなのは失敗ではなく、むしろうまくできたという達成感のほうじゃないかな」

「それはわかるんですが、なんていうか、いろいろ考えちゃって…」

「君くらいの年頃になると、いろいろ考えてしまうのはよくわかる。いろんなことに気づき始めるからね。だが、人前で演奏するときに、もっと大切なことがあるんじゃないかな?」

「あの、演奏に集中すること…かな」

「それもあるだろうね。演奏ってね、弾く前からすでに伝わってるものがあると思うよ。さて何だろう?」

「…自信とか、不安とか…?」

「そうだね。いい演奏をする人は、舞台に出てきたときから晴れ晴れした表情をしている。すべてをやり尽くした、いい準備ができた。そういう心が会場を満たしている。少しでも練習に迷いがあったり、心残りがあると、そういう表情にはならない。そうじゃないかい?」

「あの、先生。この間、中間テストがあったんですけど、すごく勉強できた教科は、早く答案書きたくてウズウズしてたっていうか」

「はは、そうだろう。苦手な教科では、そうはならないんじゃないかな?」

「はい、あの、ため息ばっかりついてました」

「ピアノの演奏も同じだと思うよ。これから弾く自分の演奏にワクワクできる人は、聴衆もワクワクさせられる。音は響き、つまり空気の振動だ。心がワクワクした振動に満ちていれば、それが音にも伝わる」

「弾く前に、決まっちゃってるってこと…ですか」

「では、本番までどういう準備をすればいいだろうか?」

「あの、はい、僕、この曲初めて聴いたときに、あの、すごくワクワクしたんです。昔のピアニストの演奏だったんですけど。そのときの気持ちを取り戻すのが必要かなって」

「いいね。あと少しだけ。ピアノを弾くとき、会場のみんなに伝えようとするだろう? でも、すべての人に好かれる人がいないように、すべての人に伝えるのは、まあ不可能なんだよ。どんな商品もすべての人に受け入れられるわけじゃないのと同じでね」

「あの、はい、何となくわかります」

「ではどうしようか?」

「えっと…すべての人が無理なら…誰か、のために…?」

「すばらしい。そうだよ。 たった一人でもいい、その人に伝えようとしてごらん。おじぎしたときに笑顔をくれた人でもいい、きみのお母さんでもいい。その人だけに伝えようとしてごらん。ある偉大なピアニストは、聴衆のなかから魅力的な女性を選んで、その女性にすべてをささげるつもりで演奏したらしい。スピーチと同じだよ。一対一を意識したスピーチが、最も大多数に伝わる」

「はい…なるほど」

「宅配便があるだろう?ひとつひとつの荷物を大切に扱って届ける人と、雑に扱ってイヤイヤ届ける人と、どっちから受け取りたい?」

「それは、やっぱり大切にしてくれる人です」

「音も同じだと思うよ。ひとつひとつの音を、ていねいにていねいに紡ぎ上げる。それだけで、受け取る人が感じるものは大きく変わる。それがピアノの不思議さであり、素敵なところなんじゃないかな」

「あの、難しいかもしれないけど、やってみます」

「今日は時間がないが、いつかメンタルリハーサルのことも一緒に考えてみよう」

「メンタル…心のことですか。わかりました」

「素晴らしい演奏が難しくても、たったひとつの音を素晴らしく弾くことはできる。たった一人のために届けることはできる。いい準備ができることを祈っているよ。さて、おしゃべりはこのくらいにして、もう一曲を聴かせてもらおうかな…」

(この連載は、フィクションです)